院長 佐藤 翔平(さとう しょうへい)

初めまして。大阪メンタルカウンセリング(OMC)院長の佐藤です。
当院での対人恐怖症、社交不安障害、パニック障害の根本治療率は開院以来100%ですが、このサイトをご覧になられているみなさんと同じく、私も不安障害を長年患っていました。(コラム – 根本治療率100%の理由)
これは私が対人恐怖症を体験したお話です。

対人恐怖症になるまで

私は平凡な家庭で平凡に育ちました。(少なくともそう思っていました。)
3人兄弟で姉と妹に囲まれ、小学校、中学校、高校と行き、高校では剣道部に入りました。その剣道部は毎年インターハイに出ているような剣道部で練習は非常に厳しく、風邪をひいても血尿が出ても休ませてもらえなかったことを覚えています。

将来は自衛隊に入りたいと考えていましたが、何か一つ役に立つスキルを身に着けようと思い、高校卒業後は中国語を身に着けるため台湾に留学しました。

帰国後、自衛隊に入った私は候補生課程の訓練で日々鍛えられました。
24時間、同期と共に過ごす毎日、連帯責任の腕立て伏せの他、当時は鉄拳制裁が当たり前のようにありました。

夜中に腕立て伏せをさせられたこともありました。1時間もの間、つぶれてもつぶれても繰り返しさせられました。
就寝は同期と同じ部屋、10人部屋の2段ベッドでした。非常に窮屈な思いをしたことを覚えていますが、体力的、精神的に相当鍛え上げられました。

1年経ち訓練課程も終わり、一般部隊に配属された私ですが、一般部隊は拍子抜けするほど退屈に感じました。自衛隊が肌に合わないと感じた私は自衛隊を辞めることにしました。

自衛隊を辞めた後は、これからの花形はIT業界だと思い、独学でプログラミングを学習し、ソフトウェア開発の会社に就職しました。3ヶ月とにはプロジェクトリーダーに抜擢され、ソフトウェア開発への自信を深めました。その翌年フリーランスとして独立し、そのまた翌年、従業員を募集し、会社として活動を開始しました。

小さな会社の経営は過酷でした。新人の教育をする傍ら、開発のマネージメントを行い、営業のため外回りをしました。連日、朝から深夜までの業務、プレッシャーは大変大きなものでした。

そんなある日、異変が起こりました。

対人恐怖症の発症

お客さんと話しているとお客さんの眼がとても怯えているように感じました。
それが一番最初に感じた体の異変だったと思います。その時はお客さんが怯えているのはお客さんが何かおかしいのだろうと思っていましたが、その後しばらくすると自分自身が人と話す時に恐怖心を感じることに気づきました。

初めのうちは強い緊張という感じでしたが、徐々に硬直、震え、動悸が起きるようになりました。人前に立つと蛇に睨まれた蛙のようになってしまうのです。頭はまるで回らず話の内容が理解できません。理解できないので「はい。」「わかりました。」のような相槌しかできませんでした。そうやって相手と離れてから話の内容を思い出し理解していました。話した時の緊張で汗をびっしょりとかいていました。

周囲の人間にはまだ相談しませんでしたが、業務の過酷さが体をおかしくしつつあると考え、会社を畳むことにしました。

会社を畳んだ私は3ヶ月ほど静養し、毎日映画を見て過ごしていました。
次の仕事をしなければと思いましたが、人と話すことに恐怖心を感じていたこともあり、知り合いのお店で電話番のアルバイトをすることにしました。
昔からの知り合いとは普通に話せましたし、電話番は対面しなくていいので気楽でした。(その時はまだ電話には恐怖心を感じていませんでした。)

ただ、アルバイトではご飯を食べていくのが精いっぱいだったことと、幸い症状が治まり新しい友人も作れるぐらいになっていたのでIT業界に戻ることにしました。

対人恐怖症の再発

IT業界に戻った私はまずは責任が小さい派遣社員から始めました。
派遣社員と言っても適当に選んだわけではなく(正社員で働くならこの会社がいい)と思っていた会社で働きました。

しかし、最初の一週間ほどは普通に勤務できていたものの、徐々に異変が起こり始めました。

まず隣席の作業ペアになった外国人と話していた時に緊張が起き会話が理解できなくなりました。同時に動悸、発汗も起きていました。

(このままではまずい)

仕事ができなければ契約を切られると思った私はがむしゃらに仕事をするようになりました。仕事内容には自信があったことから(仕事で評価されれば大丈夫だ。)と思いました。

しかし、そんな思いとは裏腹に次々と症状が襲ってきました。

東日本大震災の際大阪も揺れましたが、その時のような揺れを度々感じるようになりました。(また地震か!?)と思い、電灯の紐をとっさに見ますが全く揺れていません。1日に何度もそれが起こり、その内それがめまいだということに気づきました。

また、ある時は目の前で稲妻が走りました。視界が暗くなり、チカチカとした七色の明かりが目の前を回り始めます。そうなるとパソコンの画面は見れません。
見ようと思っても視界が暗くなり見えないのです。そして、10分ほどすると頭が割れるような頭痛に襲われました。インターネットで調べると閃輝暗点というそうです。

(これは仕事にならない!)

私は対人恐怖症になるまでは至って健康でしたので体の異常に驚き、同時に追い詰められていきました。
その後、表向きは業務量の減少ということで契約が打ち切られました。
上司の正社員の方が大変人情に溢れた方で私の状態を心配し、「佐藤さんの経歴ならもしかしたら正社員に採用されるかもしれません。」と正社員試験を受けてみるように勧めてくれましたが、既に人に隠せないまでに症状が悪化していたため、もう私には自信がありませんでした。

さまよう人生

次に見つけた仕事でも評価を得るために精一杯頑張りました。しっかりと予習して臨んだ社内の試験では最優秀の成績を収めるなどもしました。しかし、上司と話す際は恐怖心が抑えられず、明らかに恐怖心を感じている自分を見て上司は露骨に不機嫌そうでした。最終的に「ここは君には合わないよ」と言われ契約解除になりました。

(どんなに頑張っても、どんなに成果をあげても、嫌われたらおしまい)
それをわかっていても恐怖心を打ち消すことはできませんでした。

医療系システムエンジニアと病院勤務

次に見つけた仕事は医療関係のシステムエンジニアでした。
医療業界に興味があったこともあり、医療用のソフトウェアを開発しそれを病院に納品する仕事を選びました。

入社後に気づいたのですが、そこは有名なブラック企業でした。
終電、休日出勤は当たり前、月の労働時間は400時間を超えました。残業代を申請しようとすると「お前残業代申請するなら覚えとけよ」と恫喝されました。

しかし、私は高校の部活や、自衛隊で相当締め上げられて来ています。「ここは辞めてもいいや」と思えたことで、逆に開き直りました。上司はよく睨んできましたが、こちらも負けずに睨み返しました。ただ仕事は一生懸命やっていました。そうすると当初はバチバチと火花を散らしていた上司といつの間にか打ち解け重要な仕事を任されるようになっていきました。

ある時世界的に有名な医者の担当を任された際、その医者から仕事ぶりを絶賛され、個人的な相談まで受けるようになりました。
それを知った会社からは「あの先生に評価されるとはすごいことだぞ。ぜひ正社員になって欲しい」とまで言われました。

そうして気が付けば対人恐怖症が治っていました。

しかし、正社員になっても業務量は減らず徐々に体を壊し始めました。出張が多く、移動中新幹線の中で寝る日が増えました。その内、気が付けば対人恐怖症が再発していました。そうなるともうお客さんとはまともに話せません。

中には明らかに挙動不審な私に対しても仕事ぶりを評価してくれるお医者さんもいましたが、ほとんどの人が露骨に冷たくしてきました。

病気の分析と治療の試み

ただ、この時点でわかったことはこの病気は治らない病気ではないということ。
また、過酷な業務だけが原因ではなく、人の評価を気にするからなるのだということでした。(この時点ではそう思っていましたが正確には人の評価ではありません。)

この時点で最初の発症から3年が経っていました。
この頃になりようやく私は自身が対人恐怖症であることに気づき始めました。
同時に私はこの病気を治そうと思い、色々な治療を試し始めました。

まず友人に相談しましたが、友人には私自身の恐怖心がほとんどわかないため、友人から見るとほとんど違和感がないらしく、「気にしすぎだって」と言われ、ほとんど解決に結びつきませんでした。

家族も同様でした。家族に至っては「見た感じ普通だけど冗談で言っているの?」という反応が返ってきました。
やはり自身が評価を気にしていない、あるいは絶対に信頼関係が崩れないと思える相手に対しては発作が起きないようでした。

仕事内容自体はどこに行っても評価されましたが、嫌われるとおしまいでした。
恐怖心を抱いていることを感じ毛嫌いしてくる人と、受け止めてくれる人に分かれましたが、当時の自分は既に「自分の恐怖心」に恐怖する状態になっていました。

予期不安と呼ばれるものです。
人と話す前に(今から話に行くぞ)と決意して話をしに行きました。
話す前から動悸がし汗が出ました。

その内よく知らない人と電話をするだけで動悸が起こり、会話のリズムが噛み合わなくなりました。電話恐怖症を併発したのです。

また仕事についての自信があっても対人恐怖症は治らないことがわかりました。
そして既に自分を評価してくれる人に対しても自分が評価を求め続けている限り症状が起こりました。

友人の死

対人恐怖症について改善策を考えながら、激務をこなしていたある日、事件が起こりました。

以前から白血病で闘病していた友人が亡くなってしまったのでした。

1年前にお見舞いに行ったきり全然お見舞いにも行けていなかった自分の冷たさを悔い、また人間らしい生き方さえもできないブラック企業に嫌気が差し、会社を辞めることにしました。

そしてなぜ友人がこんなに早く亡くなってしまったかと言うと、友人の白血病の発見が遅れたことが大きな原因でした。友人は全身の激痛を訴え内科を何件か回ったそうですが、どの病院でも「痛風と思われる」などの誤診を繰り返し、病状が限界に達し運び込まれた大きな病院でようやく「白血病だ」と言われ白血病の治療が始まったそうです。

医療業界のシステムエンジニアをしていた自分にはなぜそうなったかがよくわかりました。病院で検査機器を自身で操作していた私は医者は決して特別な能力や知識があるわけではないと感じていたからです。インターネットで病気のアタリをつけ検査機器を操作すれば素人の自分でも何の病気か調べられます。例えばインフルエンザの検査についても検査用の試薬を渡されれば誰でも自分で検査できるのです。医者は診断を下したり薬を投与したりすることが法律で認められているだけなのです。

※注:真剣に患者さんのことを想って医療をされている方もいらっしゃいます。

フリーランスと治療

ブラック企業をやめた私はフリーランスのエンジニアになりました。
案件ごとに違う会社と契約し、そこでソフトウェア開発を行い、案件の契約期間が終われば次の案件でまた違う会社で働くというような勤務形態でした。

やはり嫌われることも多く、職場を転々としましたが元々フリーランスなのでやりにくくなる前に職場を離れることは気楽でもありました。

またフリーランスのエンジニアは稼ぎが良く、金銭的余裕を活かしこの機会に対人恐怖症を本気で治そうとあらゆる治療機関に行きました。

眼科に行くと目が乱視なのでそれが原因になっているのではないかと言われ、人生で初めて眼鏡を作りました。しかし症状の改善は見られませんでした。
次々とより有名な眼科に行きましたが眼鏡をいくつ作り変えても症状は変わりません。全部で6個ほど作りましたがこの方法じゃダメだと諦めました。

ここで気になったことは病院によって言ってることが同じではないということでした。
「もしかしたらこれが原因かな?」という程度の認識で治療されていたことがよくわかりました。

次に心療内科に行きました。テレビに出ていた有名なところを友人から勧められ受診しました。しかし、私は病院などでは発作は起きずよく話せていたため、先生からは「対人恐怖症ではない」と言われました。
「双極性障害」つまり躁鬱病だと言われ、薬をもらいました。

ところが、薬を飲んで精神的に不安定になっていたせいか翌日職場で上司に強く怒ってしまいました。自分でもなぜそうなったのかはわかりませんが、薬はやめることにしました。また病院の診断結果にも疑問を感じました。

その後、先生にお願いし対人恐怖症の自助会に参加しました。
対人恐怖症の自助会では20人ほどの人が輪のように座り順番に自己紹介をしていくということが行われていました。
順番に自己紹介をしていく中、一人がたどただしく「3年ほど通ってようやく人前で自己紹介ができるようになりました」と言いました。
私はそれを聞いて「ここはおかしい」と思いました。3年かかってやっと自己紹介ができる程度というのが遅すぎると感じたからです。

私は心療内科の怪しさに気づきました。
そもそも医療業界にいた私はほとんどの医師が治す技術がないことはよくわかっています。(実際に検査し治すのは機械と薬)
心の病を調べる検査機器もない今の状況では正しい診断さえ下せないことがよくわかりました。だから心療内科は患者に言われたままの内容を診断書に書くのです。健康保険を食い物にして利益をあげている医者の現実をよく知りました。
「この人たちの目的は金儲け。治す気などない!!」と思いました。

その他もしかしたらと思い、ボイストレーニングや話し方教室にも行きましたが目に見える効果はありませんでした。

克服方法の分析

私は病院で治療することを諦め、ネット上の情報を集めることにしました。
難治性の病気の人はみなさん同じようにされているようですが、私も移動中や空き時間はずっとインターネットで対人恐怖症の克服方法を調べ続けました。

そしてそこに書いてあることを片っ端から実践していきました。

まず健康的な生活をしなければいけないと思い、生活習慣の改善を行いました。タバコ飲酒入浴習慣に気をつけました。

次に運動。ジョギングを始め、筋トレをしました。
呼吸法や、自律訓練法、マインドフルネスも試しました。

食事の栄養バランスに気をつけ、ホルモンについても学びました。

また、たくさんの本を読みました。
アドラー心理学の本で有名な「嫌われる勇気」、
J・カバットジンの「マインドフルネスストレス低減法」、
森田療法関連の本など、気になる本を読み漁りました。

しかし治りません。

並行して分析を開始しました。
私たちシステムエンジニアはシステムに異常が起きればプログラムを解析し原因を探します。異常には原因が必ずあるのです。
それと同じように一つずつの行動の目的、それが何に繋がっていてどのような効果があるか深く考えるようにしました。

そもそも一番効果があると言われている森田療法にある「ありのままに生きる」とはどういう意味なのか?
(ありのまま?)
実はこの表現、わかる人にしかわからない表現なのです。
色々と試し、考えましたが、意味がわかったのは治ってからでした。

家庭環境が問題ということもネット上に書かれておりよく考えました。
普通の家庭に育ったはず。。。
しかし、それは思い違いでした。
人は自分の家庭しか知りません。何かわかりやすい事情がある家庭で育っていない限り自分の育った家庭は普通に感じるものです。
なぜなら自分の《普通》の基準が自分の家庭だからです。
よくよく考えると私の両親は過干渉でした。

子供への接し方についての本、「親業」を読みました。
そこに書かれていた内容は素晴らしく、両親はまさに悪い例にある親の行動を取り続けていました。例えば自分の価値観の押し付けが挙げられます。

ですが、親の愛情を全否定するつもりはありません。私の両親も私の祖父母にそのように育てられて来ており、上手な愛し方を知らなかっただけです。
思い返せば私は高校の時、軽い気持ちで家出をしたことがありました。翌日家に帰ると母が泣いていました。一晩中心配で寝られなかったのだそうです。
そのことからもわかる通り両親も私のことを心配するあまり、過干渉になっていただけで愛情のある両親だったと思います。

ただ残念ながら愛し方を間違え依存的な性格になってしまったのは事実ですので、事実は事実と受け止め改善していくしかありませんでした。

心の内面も分析しました。自分はどういう人間で何を考えて生きているのか?
そもそも具体的に何に恐怖しているのか。
人?体力でも仕事面でも決して劣っていない自分が何を恐れているのか?
真剣に考えました。

そして答えが出ました。

対人恐怖症の克服

自分が恐怖しているものの答え、
それは、、、自分自身でした。

自分を否定し攻撃していたのは自分自身でした。

それから私はそれまでに実践した効果の感じられる治療法を続けながら、自分自身を受け入れることに努めました。
「受け入れる」という言葉の意味を考え、何ヶ月も試行錯誤を繰り返しながら。

半年ほどたったある日、職場でいつものように発作への覚悟をしながら上司と話をしに行った時、、、異変が起こりました。

何も起こらないのです。汗も滲まない。
こじらせた風邪の咳がある日突然出ないような感覚でした。
あくびが出そうで出ないと言った方がいいのかもしれません。
そんな違和感でした。

もしかすると自分で気づく前から少しずつ発作は治まっていたのかもしれません。ただ、発作が出なくなっていることにはある日突然気づきました。
気づいてからは自分で自分をよく観察しましたが、やはり人と話をしても発作が出ない。

そんなことが2、3日続きようやくわかりました。

対人恐怖症が治った。。。

悔しくて何度も泣いた、何度も自分の状況に怒って壁を叩いた、今まで自分を苦しませてきた対人恐怖症がやっと治った。
対人恐怖症になって9年が経っていました。

治ってしまうとあっけないものでした。
1カ月もすると対人恐怖症だった実感も薄れ、ちょうど風邪だった時を思い出すように、対人恐怖症は記憶の中にしか存在しないものになっていました。

(そんな時期もあったなぁ)という感じです。

克服後

私は今までの人生を取り戻すように次の挑戦に向かって突き進んでいきました。

職場で仕事を頑張り、たくさんの人と積極的に話すようになりました。
対人恐怖症のメリットとして治るとすべてのことが楽に感じました。どんなに大変な仕事も対人恐怖症を患いながらの仕事と比べれば簡単でした。

仕事を頑張っていると仕事のお客さんから海外出張の話を持ち掛けられました。

出張先はシンガポール。

胸の高鳴りをおさえられません。
わくわくしながら出張の準備をし、仕事のお客さんと一緒に出発しました。
飛行機の中でも隣の全く知らない乗客と話に花を咲かせ、現地に着いてからは海外のオフィスや街並みを感じ、外国人と話す。平日の仕事後も週末もお客さんと観光や飲みに行きました。その全てがとても楽しく、

(やっと自分の人生が輝きだした。)と心から思えました。

短期出張から帰国後すぐ「またシンガポールに行ってくれないか」と声をかけて頂きそれから約2年、様々な用事でシンガポールに行きました。
私は英語が話せませんでしが、知らない人にも積極的に話しかけることで次第に英語も話せるようになりました。
仕事ぶりも評価され、「君じゃないと今回の結果は出せなかった」と何度もお客さんから絶賛されました。
対人恐怖症が治れば世界は素晴らしく楽しいものでした。

これでいいのか?

毎日が楽しくなったのはよかったですが、対人恐怖症を克服した喜びを忘れるにつれ、失った時間の大きさを感じるシーンが増えてきました。

もうこんな年齢になってしまった。
9年も失ってしまった。

そう考えると治療をする自信もないのにデタラメなことを言い続けていた医者やカウンセラーへの怒りが沸いてきました。
インターネットで検索すると今でも対人恐怖症の患者を食い物にしようとするあからさまに怪しげなサイトが溢れています。

藁をも掴むほど困っている人を騙すのは簡単だとでも思っているのでしょう。

(自分なら治し方がわかるのに何かできないものか)
そう考える日が増えていきました。

そんな時、コロナで緊急事態宣言が発令されました。
シンガポール駐在の話も出ていましたが、シンガポールへも行けなくなりました。

(やるなら今しかない!)

自分ならカウンセリングを通して本当の意味での原因を調べることができる。
解決法をわかるまで細かくかみ砕いて説明できる。
すべての患者さんに明るい未来を見せてあげたい。

そして、私は不安障害専門のカウンセリングルームを立ち上げることにしました。

以上が私の対人恐怖症の体験談です。

《これから患者さんになってくださる方達へ》
治らなければお金はいりません。
私にあなたを治療するチャンスを下さい。
最後まであなたを支えます。
あなたが諦めそうになっても私は絶対に諦めません。

※当院では対人恐怖症、パニック障害共に100%の方が3ヶ月以内の根本治療に成功しています。(2020年12月現在)

最後に私の信念をお伝えします。

絶対に助ける